八柱の二番目に現れる神は、「弟」の神なのでしょうか。淤縢山津見神(おどやまつみのかみ)は、伊邪那岐命が火の神の火之迦具土神を斬ったとき、その体の胸から成った神です。名前の「淤縢(おど)」には、二つの読み方が出されていますが、どちらにも疑問が向けられています。この記事では、原文に付いた小さな注と、古い日本語の文字の使い分けを手がかりに、この二文字を読んでいきます。
1. 頭、胸、腹――並びのなかの一柱
火の神の体からは、頭・胸・腹・陰・左手・右手・左足・右足の順に、8柱の山の神が成ります。淤縢山津見神は二番目、胸から成った神です。一番目、頭から成ったのは正鹿山津見神で、8柱の全体は山津見の八神の記事にまとめました。
原典がこの神について記すのは、胸から成ったことと名前だけです。姿も、言葉も、その後の働きも書かれていません。
2. 「二字以音」――この二文字は音で読む
古事記ビューアーが示す原文では、この神の名のすぐ後に「淤縢二字以音」という小さな注が付いています。「淤縢の二字は、音で読む」という意味です。
古い日本語の書き方には、大きく分けて二つの方法がありました。オックスフォード大学と国立国語研究所の『上代語コーパス(ONCOJ)』の解説によれば、漢字の音を借りて日本語の音を表す書き方と、漢字の意味で日本語の語を表す書き方です。「淤縢」は前者、つまり漢字の意味は関係なく、「オ」「ド」という音だけを書き表した字だ、と原文がわざわざ断っていることになります。
同じ注は、左手の志芸山津見神の「志藝」にも付いています。反対に、頭の正鹿山津見神の「正鹿」には付いていません(正鹿山津見神)。8柱の名は、書き方の点でも同じではないのです。
読み方にも小さな違いがあります。國學院大學の神名データベースと古事記ビューアーは「おど」と読みますが、武田祐吉の注釈による本文では「おと」とふりがなが付いています。
3. 名前の意味は、一つに決まらない
字が音だけを表しているなら、「オド」という音がどんな言葉なのかを考えることになります。國學院大學の神名データベースは、二つの説と、それぞれへの疑問を挙げています。
| 説 | 内容 | 向けられている疑問 |
|---|---|---|
| 下処(おりど) | 「下の所」の意とする | 古い仮名の使い分けで、「縢」と「処」の「ト」は別の組に属するので合わない |
| 弟(おと) | 「弟」に通じ、一番目の「マサカ」に対して「その次」を示す | 「淤縢」と「弟」が通じるかを疑う意見がある |
どちらの説も、そのまま受け入れるには難しさがあります。名前の意味は、今のところ一つに決まっていません。
4. 同じ「ト」でも、文字の組が違う
「下処」説への疑問を理解するには、奈良時代までの日本語の特徴を知る必要があります。
当時の日本語では、今は同じ音に聞こえる一部の音が、二つの組に分かれて区別されていました。研究では、これを「甲類」と「乙類」と呼んでいます(上代特殊仮名遣い)。ONCOJの解説が挙げる例を見てみます。
| 今の読み | 甲類の語 | 乙類の語 |
|---|---|---|
| ひ | 日(太陽) | 火 |
| め | 女 | 目 |
| こ | 子 | 此(これ) |
「日」と「火」は、今はどちらも「ひ」ですが、当時は別の音として書き分けられていました。そして、どちらの組の音を書くかによって、使う漢字も決まっていたのです。
國學院大學の神名データベースによれば、「淤縢」の「縢」が表す「ト」は乙類、「下処」の「処」の「ト」は甲類です。今の耳には同じ「ト」でも、当時は別の音だったことになります。だから「オド=オリド(下処)」とは結び付けにくい、というのが反論の理由です。
5. 「二番目」と「弟」を分けて読む
もう一つの「弟」説は、八柱のなかの順番に注目した読み方です。一番目の「マサカ」の次だから「弟(おと)」だ、というわけです。
ただし、ここでは二つのことを分けて考える必要があります。
- 原典にあること: 淤縢山津見神は、8柱のうち二番目に、胸から成った。
- 原典にないこと: 8柱が兄弟であること、淤縢山津見神が誰かの弟であること。
『古事記』は8柱を、体のどこから成ったかの順に並べているだけで、兄と弟の関係として書いてはいません。「二番目」という事実から、すぐに「弟」という関係を読み取ることはできないのです。名前の音が「弟」と通じるかどうかにも、先に見たとおり疑問が出されています。
6. 『日本書紀』には現れない名
『日本書紀』の第五段一書第八にも、火の神の体から山の神が成る話がありますが、そこに淤縢山津見神にあたる名は見えません。
平安時代の『先代旧事本紀』は、体の真ん中(身中)から成った「中山祇」を挙げ、その異説として、胸から成った「瀬勝山津見神」を記しています。「中山祇」は、『日本書紀』の一書第八に見える名です。胸の神の名は、書によって大きく揺れていることが分かります。
7. 胸の神、二文字の音、残る問い
最後に、分かることと、分からないことを整理します。
- 分かること: 淤縢山津見神は、火の神の胸から成った、山津見の八神の二番目の神。原文は「淤縢」の二字を音で読むよう注記している。
- 出されている説: 「下処(下の所)」説と、「弟(その次)」説。
- 残る問い: 下処説には甲類・乙類の違いという反論があり、弟説には音が通じるかという疑問がある。名の意味は決まっていない。
ここからは考察です。淤縢山津見神の名は、意味を伝えるためではなく、音を伝えるために書かれています。だからこそ、千三百年前の人がその音をどう発音していたかという、文字の細かな使い分けが、名前を読む鍵になります。物語の言葉がない神の名前から、古い日本語の音の世界がのぞいている、といえるでしょう。
まとめ
- 淤縢山津見神は、伊邪那岐命が斬った火の神の胸から成った神で、山津見の八神の二番目にあたります。原典に書かれているのは、成った場所と名前だけです。
- 原文は「淤縢二字以音」と注記し、この二文字を漢字の音で読むことを示しています。
- 名の意味には「下処」説と「弟」説がありますが、前者には古い仮名の甲類・乙類の違いという反論、後者には音が通じるかという疑問があります。
- 八柱の二番目であることと、「弟」であることは別のことです。原典は八柱を兄弟として書いていません。
- 『日本書紀』の一書にはこの名がなく、『先代旧事本紀』には胸から成る瀬勝山津見神という異説が見えます。
参考文献
- 武田祐吉 注釈校訂『古事記』(青空文庫)
- 國學院大學 古典文化学事業「古事記ビューアー」火神被殺 原文・訓読文(2026年10月24日に確認)
- 國學院大學 古典文化学事業「神名データベース」淤縢山津見神(2026年10月24日に確認)
- Frellesvig, Bjarke, Stephen Wright Horn et al. (eds.) Oxford-NINJAL Corpus of Old Japanese(オックスフォード・NINJAL上代語コーパス)フロントページ(2026年10月24日に確認)
