志芸山津見神(しぎやまつみのかみ)の「シギ」は、鳥の鴫(しぎ)の名なのでしょうか。それとも、山の姿を表す言葉なのでしょうか。この神は、伊邪那岐命が火の神の火之迦具土神を斬ったとき、その体の左手から成った神です。この記事では、原文の注を入口に、「シギ」の三つの解釈と、『日本書紀』に見える似た名の神との違いを、資料ごとに分けてたどります。
1. 古事記では、左手に成る第五の神
火の神の体から成る8柱の山の神は、まず胴の四か所(頭・胸・腹・陰)から順に現れ、その後に手足の四か所へ移ります。その手足の最初、左手から成ったのが志芸山津見神で、8柱では五番目にあたります。8柱の全体は山津見の八神の記事にまとめました。
原典がこの神について書いているのは、左手から成ったことと名前だけです。
2. 「志」と「藝」――漢字の意味より、まず音へ
古事記ビューアーが示す原文では、この神の名の後に「志藝二字以音」という小さな注が付いています。「志藝の二字は音で読む」という意味です。胸の淤縢山津見神にも同じ注がありました(淤縢山津見神)。
つまり「志」は「こころざし」、「藝」は「わざ」という漢字の意味とは関係がありません。原文は、この二字が「シ」「ギ」という音を書き表しているだけだ、と断っているのです。名前の意味を考えるときは、字ではなく「シギ」という音から出発することになります。
3. 茂る、重なる、鳥の鴫――三つの見方
國學院大學の神名データベースは、「シギ」の意味として三つの説を挙げています。
| 説 | 読み方 | 補足 |
|---|---|---|
| 茂る | 茂る意とする | ― |
| 重なる | 重なる意の「シク」の語とする | 「シク」は濁らず「シギ」は濁るので合わないとする意見と、濁る・濁らないは入れ替わることがあるとする意見がある |
| 鳥の鴫 | 鳥の名の「しぎ」 | 鴫は、くちばしの長い鳥 |
前の二つは、ものの様子を表す言葉として読む説です。三つ目は、鳥の名を手がかりにする説で、山とのつながりを説明する工夫が必要になります。
4. 鳥の鴫から、どう山につながるのか
鳥の鴫の説には、山との結び付け方がいくつか出されています。
- 鴫が棲む山の麓: 鴫の棲む山の麓、つまり山の足からの連想とする説。
- くちばしの長さ: 鴫のくちばしが長いことから、長く延びた手や足を連想したとする説。
- 長く延びた山裾: 古事記ビューアーの注釈が紹介する中西進の説では、くちばしの長い鳥の名で、長く延びた山の裾を表すとされます。
中西進の説では、手足の四柱はどれも山の裾にあたるとされます。すぐ隣の右手から成った羽山津見神も、名の「ハ」を山の端・麓と読む説があり、左右の手の神が、そろって山のはしの方を表す名を持つことになります。
いずれの説でも、鳥はあくまで名前を読むための手がかりです。志芸山津見神が鳥の姿をしていた、鳥に化けたといったことは、原典には書かれていません。
5. 古事記の左手と、書紀一書の足
『日本書紀』の第五段一書第八にも、火の神の体から山の神が成る話があります。東北亜歴史財団が公開している原文によれば、その一書は火の神を五つに斬り、首・身中・手・腰・足から五柱の山の神が成ったとし、五番目について「五は足、䨄山祇(しぎやまつみ)に化為る」と記します。そして文末に、「䨄、此には之伎(しき)と云ふ」という読みの注を付けています。
ここで、『古事記』との違いを分けて確かめておきます。
| 『古事記』 | 『日本書紀』一書第八 | |
|---|---|---|
| 名前 | 志芸山津見神 | 䨄山祇 |
| 字の書き方 | 音で読む二字「志藝」 | 一字「䨄」に読みの注「之伎」 |
| 成った部分 | 左手 | 足 |
| 順番 | 8柱の五番目 | 5柱の五番目 |
もう一つ注意したいのは左右です。一書第八の原文には「左」「右」の字が一度も出てきません。ですから、この䨄山祇を「左足の神」と呼ぶのは誤りで、左という情報は『古事記』の側にしかありません。
この一書は、五柱の名を挙げたあとに、もう一文を続けています。斬ったときの血がほとばしって、石や小石、木や草を染めた。草や木や砂や石がおのずと火を含むのは、このためである、という一文です。山の神々の誕生が、身のまわりの物に火がひそむ理由の説明と一続きに語られているのです。神名データベースが紹介する火山の説も、この一文とあわせて山津見の神々を読もうとするものです(山津見の八神)。
成った部分が手と足で違うことは、鴫の説の手がかりにもなっています。くちばしの長さから手や足を連想したとする説は、『古事記』の手と『日本書紀』の足の両方を説明しようとするものです。
6. 一つの音から、いくつもの山の姿へ
最後に、分かることを整理します。
- 原典にあること: 左手から成った、手足の四柱の最初の神。名の二字には「音で読む」という注がある。
- 名前の解釈: シギは、茂る、重なる、鳥の鴫の三説。鴫の説では、麓に棲むこと、くちばしの長さから、山の麓や延びた山裾に結び付けられる。
- 『日本書紀』との違い: 一書第八では、一字の「䨄」で書かれ、「之伎」と読ませ、足から成る。左右は書かれていない。
ここからは考察です。「シギ」という二つの音は、木の茂る山にも、重なり合う峰にも、くちばしの長い鳥の姿にも読めます。字が音しか伝えないからこそ、読み手は山のいろいろな姿を思い浮かべることになります。一つの音から、いくつもの山の姿が立ち上がる。それが、この神の名の面白さといえるでしょう。
まとめ
- 志芸山津見神は、手足の四柱の最初に、火の神の左手から成った山の神です(8柱では五番目)。原典に書かれているのは、成った場所と名前だけです。
- 原文は「志藝二字以音」と注記し、この二字を漢字の意味ではなく音で読むことを示しています。
- 「シギ」には、茂る・重なる・鳥の鴫の三つの説があります。鴫の説では、麓に棲むことやくちばしの長さが、山の麓や山裾の連想に結び付けられます。
- 『日本書紀』の一書第八では「䨄山祇」と書かれ、「之伎」と読まれ、手ではなく足から成ります。一書は左右を書いていないので、『古事記』の「左」を補って比べないことが大切です。
参考文献
- 武田祐吉 注釈校訂『古事記』(青空文庫)
- 國學院大學 古典文化学事業「古事記ビューアー」火神被殺 原文・訓読文・訓釈(2026年10月24日に確認)
- 國學院大學 古典文化学事業「神名データベース」志芸山津見神(2026年10月24日に確認)
- 東北亜歴史財団 東北亜歴史ネット「日本書紀 神代上 第五段一書第八」原文(2026年10月24日に確認)
