鹿島神宮 参拝記――杉の大鳥居と楼門、奥宮と御手洗池をめぐる【2026年10月】

鹿島神宮 楼門

2026年10月11日の午後、茨城県鹿嶋市の鹿島神宮に参拝しました。同じ日の昼には、大洗町の大洗磯前神社にも参っています。境内は空気が澄んでいて、神聖な気持ちになる場所でした。鹿島神宮の御祭神は武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)で、『古事記』では建御雷之男神(たけみかづちのをのかみ)と書かれる神です。この記事では、神宮の公式サイトで御祭神・由緒・境内の建物を確かめ、『古事記』の書き方と比べながら、撮ってきた写真を順に紹介します。

目次

1. 常陸国一之宮――参拝日と基本情報

項目内容
参拝日2026年10月11日(写真の記録では14時53分〜16時29分)
鎮座地茨城県鹿嶋市宮中2306-1
御祭神武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)
社殿本殿・石の間・幣殿・拝殿は元和5年(1619)に徳川秀忠が寄進。重要文化財
例祭9月1日

御祭神・社殿・例祭は、鹿島神宮の公式サイトによります。公式サイトによれば、例祭は6年に一度、天皇の使いである勅使が遣わされる勅祭となり、さらにそのうち2回に1回、12年に一度の午年には、船で巡る御船祭(みふねまつり)も行われます。

2. 境内の杉で建て直された大鳥居

「鹿島神宮」の社号標と木造の大鳥居
大鳥居と社号標(2026年10月11日撮影)

表参道の突き当たりに立つのが大鳥居です。公式サイトによれば、以前の大鳥居は昭和43年に完成した御影石製でしたが、2011年3月11日の東日本大震災の余震で倒れました。神宮は木で造り直すことを決め、境内に自生する杉の巨木4本を切り出して、同じ寸法の鳥居を平成26年(2014)6月1日に再建しています。

写真の鳥居の木肌は、その杉です。境内の森から伐った木が、参拝者を迎える門になっていることになります。

3. 水戸藩の頼房が奉納した楼門

朱塗りの楼門
楼門(2026年10月11日撮影)

参道を進むと、朱塗りの楼門が現れます。公式サイトによれば、日本三大楼門の一つに数えられ、高さは約13メートル、重要文化財に指定されています。

  • 寛永11年(1634)に、水戸徳川家初代の徳川頼房が奉納した。
  • 3代将軍家光の病気平癒を頼房が祈願させ、家光が快方に向かったことへのお礼だった(『鹿嶋社楼門再興次第記』による)。
  • 江戸・浅草の水戸藩下屋敷で130人余りの大工が部材を刻み、船と筏で運んで組み立てた。
  • 朱塗りになったのは昭和15年の大修理のとき。

社殿は2代将軍秀忠、後で触れる奥宮は徳川家康、楼門は水戸の頼房と、徳川家の三人がそれぞれ建物を納めていることが分かります。

4. 御祭神の武甕槌大神――神宮の由緒と『古事記』の書き方

境内の社殿の屋根と、背後にそびえる杉の大木
境内の社殿の屋根と杉の大木(2026年10月11日撮影)

公式サイトは、御祭神の武甕槌大神について、次のように伝えています。

  • 天照大御神の命を受け、香取神宮の御祭神である経津主大神(ふつぬしのおおかみ)と共に出雲に降り、大国主命と話し合って国譲りを成し遂げた。
  • 神武天皇が東征の途中で窮地に陥ったとき、武甕槌大神の韴霊剣(ふつのみたまのつるぎ)の力で救われた。天皇はこれに感謝し、即位の年にこの地に大神を祀った(鎌倉時代成立の『鹿島宮社例伝記』による)。

この二つの場面は、『古事記』にも書かれています。ただ、細部は少し違います。『古事記』の国譲りで建御雷之男神と一緒に遣わされるのは経津主神ではなく、鳥之石楠船神(天鳥船神)です。経津主神と組む形は、『日本書紀』の伝えに近いものです。神武天皇の場面では、建御雷之男神は自ら降りず、高倉下(たかくらじ)の倉に横刀を落として届けさせます。

もう一つ、『古事記』にも『日本書紀』にも、この神を鹿島の神とする記述はありません。いつから鹿島神宮の祭神とされたのかには議論があります。そのことは、名前と物語での行動を読み比べた建御雷之男神の記事で詳しく扱っています。

公式サイトによれば、韴霊剣は神話のうえでは神武天皇の手を経て石上神宮(奈良県天理市)に祀られ、鹿島神宮には戻っていません。その代わりに鹿島神宮には、全長2.7メートルを超える国宝の「直刀」が伝わり、「二代目の韴霊剣」と解されているそうです(宝物館は平成30年から休館中)。

5. 奥参道の先に建つ奥宮

森の中に建つ奥宮の社殿
奥宮(2026年10月11日撮影)

社殿の先には、奥宮へ向かって約300メートルの奥参道が延びています。公式サイトは、巨木に覆われた荘厳な道と紹介し、毎年5月1日にはここで流鏑馬(やぶさめ)神事が行われるとしています。

奥宮の御祭神は、武甕槌大神の荒魂(あらみたま)です。公式サイトによれば、今の奥宮の社殿は、慶長10年(1605)に徳川家康が関ヶ原の戦いに勝ったお礼として、今の本殿の位置に本宮として納めたものでした。14年後に秀忠が新しい社殿を建てるとき、この建物を奥宮の場所へ曳いて移したのです。写真の社殿は、色を塗らない木の肌のまま、森の中に建っています。

6. 底まで澄んだ湧水の御手洗池

湧水をたたえた御手洗池と、池に立つ鳥居
御手洗池(2026年10月11日撮影)

奥宮からさらに進むと、御手洗池(みたらしいけ)があります。公式サイトによれば、1日に40万リットル以上の水が湧き、水底が一面見渡せるほど澄んだ池で、昔は参拝の前にここで禊(みそぎ)をしていました。今も年の初めには、200人ほどが大寒禊を行うそうです。

写真でも、池の底まで透けて見えます。池には鳥居が立ち、張り出した木の枝を何本もの柱が支えていました。

この日は、御手洗池のそばにある「湧水茶屋 一休(ひとやすみ)」で、湧き水で作ったそばもいただきました。おいしいそばでした。

公式サイトの特集によれば、御手洗池のあたりはかつて鹿島神宮に参る起点と考えられていた場所で、鎌倉時代より前は内海の入り江が池の近くまで入り込んでいたと伝わります。

7. 鹿園と天迦久神――国譲りの「使い」

境内には鹿が飼われている鹿園もあります。公式サイトは、国譲りの神話で鹿の神の天迦久神(あめのかくのかみ)が重要な役目を担ったことから、今も鹿が神の使いとされていると説明しています。

『古事記』では、天迦久神は、天の石屋にいる天尾羽張神(あめのおはばりのかみ)のもとへ問い合わせに行く使いです。天尾羽張神は、この役には自分の子を、と建御雷之男神を差し出します。天之尾羽張は、もとは火の神の場面で伊邪那岐命が手にした剣の名で、その剣についた血からは建御雷之男神を含む剣の八神が成っています。

公式サイトによれば、奈良に春日大社を創建するときも、鹿島の神の分霊を鹿の背に乗せて遷したと伝わります。

朱塗りの手水舎
手水舎(2026年10月11日撮影)

まとめ

  • 2026年10月11日の午後、茨城県鹿嶋市の鹿島神宮に参拝しました。空気の澄んだ、神聖な気持ちになる境内でした。
  • 御祭神は武甕槌大神で、『古事記』の建御雷之男神にあたります(公式サイト)。
  • 大鳥居は震災で倒れた御影石の鳥居に替えて、境内の杉で平成26年に再建されました。楼門は寛永11年に水戸の徳川頼房が奉納したものです。
  • 神宮の由緒は国譲りと韴霊剣を伝えます。『古事記』とは連れ立つ神などに違いがあり、記紀には鹿島の神とする記述がありません。
  • 奥宮は家康が納めた旧本宮を移したもの、御手洗池は1日40万リットル以上が湧く禊の池です。

ゆかりの社をたずねるなら:鹿島神宮と近くの宿(神社めぐりと歴史旅の帳)

参考文献

  • 鹿島神宮 公式サイト「御由緒・御祭神」「武甕槌大神と韴霊剣」「境内案内」「大鳥居再建」「御手洗池口鳥居再建」(2026年10月19日に確認)
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