樋速日神(ヒハヤヒ)とは?「樋」の字は水の管か、音の仮名か【古事記】

樋速日神(ひはやひのかみ)のアイキャッチ画像

「樋」は、水を通す管を表す字です。樋速日神(ひはやひのかみ)という名を目にすると、竹や木の管を水が伝っていく景色が浮かびます。ところが『古事記』でこの神の名が出てくるのは、伊邪那岐命(いざなぎのみこと)が火の神を斬り、その剣の血が岩へ飛んだところです。水はどこにも流れていません。この記事は「樋」の一字から出発して、辞書の意味、原典の場面、漢字が音を写すという使い方、『日本書紀』の「熯」という別の字、火・乾・霊の3説、似た名の神との区別を順に確かめ、この字は水の管なのかという問いに答えます。

https://www.youtube.com/watch?v=-kYwi2aZI2Y
目次

1. 「樋」の一字に二つの見方――字で見るか、音で聞くか

比べる点字で見ると音で聞くと
「樋」が表すもの木でつくった、水を通すみち「ヒ」という音
名から浮かぶもの管を流れる水火、乾、霊(説が分かれる)
手がかり漢字の辞書『日本書紀』が頭の字を「熯」と書くこと
神名の読み方としてこの意味で読む説は、この記事が拠った資料に挙がっていない國學院大學の神名データベースが、音を写す仮名と説明している
『古事記』の本文樋も水も出てこない名の意味は説明されない

読みは「ひはやひのかみ」で、別名は記されていません。國學院大學の神名一覧には、「ひのはやひのかみ」という読みも載っています。

表の左の列は、字の形から受ける印象です。右の列は、神名についての説明です。二つを分けておかないと、字から浮かんだ水の景色を、そのまま神の性格に移してしまいます。

2. とい、水門、細長いみぞ――辞書が挙げる「樋」の意味

漢字ペディア(日本漢字能力検定協会)によれば、「樋」の音読みは「トウ」、訓読みは「ひ」と「とい」です。木でつくった、水を通すみちを表す字とされています。

「樋(ひ)」という語の意味としては、次の三つが挙がっています。

  1. 水を流し送るために、竹や木などで作った細長い管。「とい」のことです。
  2. 水門。
  3. 刀や弓などの、物の表面につけた細長いみぞ。

一つ目と二つ目は水に関わります。字を見て水の景色が浮かぶのは、辞書に照らしても無理のないことです。

三つ目には「刀」の語が入っています。樋速日神は剣の血から成る神なので、ここで目が止まります。けれども、神名をこの意味で読む説は、この記事が拠った資料には挙がっていません。辞書にはこういう意味も載っている、と紹介するところまでにして、神名とは結び付けないでおきます。

水に関わる神なら、『古事記』には別にいます。病の床の伊邪那美命に成った 弥都波能売神(みつはのめのかみ)は、名の読み解きから水の神とされています。この剣の場面でも、水に関わる名を持つとされるのは柄の血から成る2柱で、樋速日神はそのまとまりに入っていません。

3. 剣の根元の血に成る二番目の名――樋を作る物語は本文にない

では、原典のどこにこの神が現れるのかを確かめます。伊邪那岐命は、子である 火之迦具土神 を剣で斬ります。そこに至るまでの経緯は、その記事に書きました。剣に着いた血から神々が次々に成り、樋速日神の名は、根元のほうの血を語るくだりにあります。

……成れる神の名は、甕速日神。次に樋速日神。次に建御雷之男神

省いた前半が語っているのは、血の出どころと行き先です。「御刀の本」、つまり剣の根元のほうに着いた血が、湯津石村(ゆついはむら)という岩の群れへ走って着きます。そこに成った神として、甕速日神(みかはやひのかみ)、樋速日神、建御雷之男神(たけみかづちのをのかみ)の名が続きます。樋速日神は3柱の真ん中です。この後ろに、原典は「三神」と注記しています。

湯津石村という語は 石拆神 の記事で、剣の先・根元・柄と8柱の対応は 剣の八神 の記事で扱っています。

この一文に出てくるものを拾うと、剣、血、岩、神の名です。水はありません。樋を造る者も、樋に水を通す者もいません。樋速日神が何かを行うところも、何かを語るところもなく、記されているのは成り立ちと名だけです。「樋の神」の物語を、本文から読み取ることはできません。

4. 漢字が音を写すとき――「樋」はヒの仮名と説明されている

それなら、「樋」の字はなぜ名に入っているのでしょうか。

國學院大學の神名データベースによれば、樋速日神の「樋」は「ヒ乙類の仮名」です。ここで言う仮名は、漢字を意味のためではなく、音を写すために使ったものを指します。古い時代の日本語では「ヒ」に二通りの音の区別があったとされ、その一方が乙類と呼ばれています。「樋」は、その音を書き表すために置かれた字だ、という説明です。

この説明に立つと、「樋」は水の管という意味では読まれません。受け取るのは「ヒ」という音だけで、字の意味は名の外に置かれます。

漢字を音のために使う書き方は、『古事記』の神名ではよく見られます。先ほどの弥都波能売神の名は、音だけで書かれています。水の神とされるのも、ミツハという音を読み解いた結果です。

樋速日神の「樋」は、音を写す字でありながら、字そのものにもはっきりした意味があります。そのために、音より先に字の意味が目に入ってくるのです。

5. 『日本書紀』は「熯」と書く――ヒを火・乾・霊と取る三つの説

「樋」が音を写した字だとすると、次に問われるのは、その「ヒ」が何を指すのかです。手がかりの一つは、ほかの書の書き方にあります。

書名の字どう現れるか
『古事記』樋速日神剣の根元のほうの血から、3柱の二番目に成る
『日本書紀』第五段 一書第六熯速日神、熯速日命剣の鐔(つば)から垂れる血に、甕速日神の次に成る
『日本書紀』第九段 本文熯速日神甕速日神の子、武甕槌神の親とされる
『先代旧事本紀』陰陽本紀熯速日神名が見える

「一書(あるふみ)」は、『日本書紀』が本文のわきに並べている別伝です。

『日本書紀』は、頭の字を「樋」ではなく「熯」と書きます。熯速日神の読みは「ひのはやひのかみ」です。字は入れ替わっても、頭の「ヒ」という音はそのまま残っています。

神名データベースは、この「ヒ」について三つの説を挙げています。

火と取る説

『日本書紀』が「熯速日神」と書き、その「熯」を「火」と訓ずることから、ヒを火とする説です。別の書の字を手がかりにして、『古事記』の名を読んでいます。

乾と取る説

火とするのは誤りで、「乾」だとする説です。國學院大學の古事記ビューアーの注釈によれば、本居宣長の『古事記伝』に、「乾の意」と取る説があります。

霊と取る説

ヒを「霊」とする説です。この読み方は、対になる甕速日神の名の「日」にも出されています。

火、乾、霊。どれを取っても、水の管にはつながりません。三つの説は、どれも「樋」の字の意味を通らずに、音のほうから名に入っています。

6. 甕速日神と分け合う「ハヤヒ」――雷の解釈と、動かさない剣と岩

頭の一字を除くと、名の残りは「速日(はやひ)」です。この2字は、一つ前に成る 甕速日神 の名にもそのまま入っていて、2柱は対で成る神とされています。ミカ・ハヤ・ヒという音の一つ一つと、「日」は太陽なのか霊なのかという議論は、そちらの記事にまとめました。ここでは、樋速日神について言われていることだけを挙げます。

神名データベースによれば、「速日」の取り方には三つあります。

  • 迅速勇猛な太陽と取る説。樋速日神を、物を乾かし尽くす、迅速猛烈な太陽の神とします。
  • 勢いの盛んな霊と取る説。雷の神の性格を取ります。
  • 霊能が猛烈であることを表す接尾語と取る説。火が猛烈である霊力の神とします。

一つ目には「乾かす」、三つ目には「火」の語が入っています。頭のヒをどう読むかが、名の全体の像にまで及んでいることが分かります。

落雷で火が起こる、その霊威を神と見る説も出されています。名義や刀剣、同じ列に並ぶ神との関わりから、雷の神の性格を認める見方もあります。すぐ後に成る建御雷之男神は、名に「雷」の字を持つ神です。

誕生の場面そのものを落雷に重ねる解釈もあります。振り下ろされる刀を稲妻に、刀に着いた火の神の血を火に見立て、それが地上の樹木などに着いて燃え出すさまを表す、と読むものです。

ただ、雷も樹木も、解釈のなかに出てくるものです。本文で血が着く先は岩で、木ではありません。そこにあるのは剣と血と岩だけです。樋速日神の誕生は、この道具立てを入れ替えずに読む必要があります。

7. 『日本書紀』第九段の親子と、『古事記』の横並び

5節の表の3行目に戻ります。『日本書紀』第九段の本文は、経津主神(ふつぬしのかみ)と武甕槌神(たけみかづちのかみ)を遣わす段です。ここに、稜威雄走神、甕速日神、熯速日神、武甕槌神と、親から子へ続く系譜が出てきます。熯速日神は、甕速日神の子であり、武甕槌神の親です。

『古事記』の樋速日神は、そうではありません。3柱は一つの文のなかに「次に」でつながれ、同じときに、同じところに成ります。樋速日神は、前の神の子でも、後の神の親でもありません。『古事記』にも建御雷神の親は出てきますが、それは後の段で神として現れる剣のほうで、樋速日神ではありません。

二つの書を重ねて、「樋速日神は甕速日神の子で、建御雷之男神の親」と言ってしまうと、『古事記』にない系譜を『古事記』の神に着せることになります。縦につなぐのは『日本書紀』第九段の本文、横に並べるのは『古事記』です。『日本書紀』の一書第六に見える「祖」の一字は、甕速日神の記事で取り上げました。

8. 似た名の神を一つにまとめない――誓約の場面、出雲、氏族の記録

「速日」を含む似た名は、ほかの箇所にも見えます。神名データベースが挙げるものを、表にします。

どこに出るか名の字剣の場面の神と同じか
『日本書紀』第六段 一書第三熯之速日命誓約で成る神。同じ神ではないとする説がある
『日本書紀』第七段 一書第三熯速日命上に同じ
『先代旧事本紀』神祇本紀熯之速日命名が見える、とあるだけ
『出雲国風土記』大原郡樋速日子命資料に説明がない
『新撰姓氏録』摂津国神別・河内国神別熯之速日命氏族の祖として名が出る。資料に説明がない

初めの2行は、日神(天照大神)と素戔嗚尊の誓約(うけい)で成る神です。剣の血が岩に着いて成る神とは、成る場面が違います。そこで、剣の場面の神と同じ神ではないとする説があります。『古事記』が語る 天照大御神と須佐之男命の誓約 では珠から5柱の男神が成りますが、そのなかにこの名はありません。

『出雲国風土記』の大原郡には、「樋速日子命」という名が見えます。頭の字は『古事記』と同じ「樋」ですが、後ろに「子」の字が入り、「神」ではなく「命」で結ばれています。剣の場面の樋速日神と同じ神なのかどうかは、資料に説明がありません。

『新撰姓氏録』には、氏族の祖としてこの名が出てきます。摂津国神別の「服部連」は「熯之速日命十二世孫 麻羅宿禰の後」、河内国神別の「服連」は「熯之速日命の後」とされています。名の形は、誓約の場面に見える「熯之速日命」と同じです。この記録から、剣の場面の樋速日神を服部連の祖と言い切ることはできません。

名が似ている、字が同じ、というだけでは、同じ神とは決まりません。どの書の、どの場面の名なのかを確かめ、説明のないものは説明のないままにしておきます。

9. 水の字で書かれた、水ではない音――考察と、問いへの答え

以下は考察です。

「樋」を字で見ると水の管が浮かび、音で聞くと火、乾、霊が挙がります。字の意味と、字が写している音とを分けたとたんに、名の見え方が変わります。火と取る説に立てば、水を通す管の字が、火を言う「ヒ」を写していることになります。字の景色と音の指すものが、ほとんど反対を向いています。

その分け目を見せてくれるのが、『日本書紀』の「熯」です。同じ位置に立つ神の名が別の字で書かれ、「ヒ」という音だけが残っています。もし水の管という意味が名の芯だったなら、別の書でも水に関わる字が選ばれてよさそうですが、そうはなっていません。二つの書に通じているのは、字ではなく音です。このことは、「樋」を音の仮名と見る手がかりになります。もっとも、これは二つの表記を見比べて言えることで、『古事記』がなぜこの字を選んだのかは、どこにも語られていません。

初めの問いに答えます。「樋」は水の管なのでしょうか。字としては、そのとおりです。けれども樋速日神の名のなかでは、水の管の意味では読まれていません。ヒという音を写す字と説明されていて、そのヒが火なのか、乾なのか、霊なのかは分かれています。本文にも、水は流れていません。名を見て浮かんだ水の景色をいったん脇に置くことが、この神を原典に沿って読む出発点になります。

剣の根元の血に成る神は、あと1柱、建御雷之男神 を残しています。この場面より前に現れた島々と神々を順にたどり直すなら、国生み・神生み(まとめ) の記事が入口になります。

まとめ

  • 樋速日神の名は、火の神を斬った剣の根元のほうの血が岩に着くくだりに、3柱の二番目として出てきます。本文に水は流れず、樋を造る場面も、水を通す場面もありません。
  • 「樋」は辞書では水を通す管を表す字ですが、神名では「ヒ」の音を写す仮名と説明されています。
  • 『日本書紀』はこの神を「熯速日神」と書きます。ヒには、火とする説、乾とする説、霊とする説があります。
  • 後ろの「速日」は、対で成る甕速日神と同じ2字です。雷や落雷に結ぶ読み方は名と場面の解釈で、本文にあるのは剣と血と岩です。
  • 親子の系譜は『日本書紀』第九段の本文のもので、『古事記』では3柱は横に並んで成ります。
  • 誓約の場面の熯之速日命、『出雲国風土記』の樋速日子命、『新撰姓氏録』の熯之速日命は、剣の場面の樋速日神と同じ神とは決められません。

参考文献

  • 倉野憲司 校注『古事記』岩波文庫
  • 坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋 校注『日本書紀(一)』岩波文庫
この記事が役に立ったらシェアしてもらえると嬉しいです
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!
目次