石拆神(いわさくのかみ)の名は、字をそのまま追えば「岩を裂く神」と読めます。ところが『古事記』を開いても、この神が岩を裂くところはどこにも出てきません。あるのは、伊邪那岐命(いざなぎのみこと)が火の神を斬った剣の先から血が飛び、岩の群れに着いて、この神が成ったという一文だけです。それなら、名のなかで岩を裂いているのは何なのでしょうか。この記事では、誕生を語る一文、舞台になる湯津石村(ゆついはむら)、名の成り立ち、裂く主をめぐる3つの解釈、そして『日本書紀』の磐裂神を、本文と学説と考察に分けて読んでいきます。
1. 「岩を裂く神」は岩を裂かない――名と本文のあいだ
| 問い | 『古事記』の本文から分かること | 本文の外にあるもの(注釈・別の書) |
|---|---|---|
| 何という神か | 石拆神。読みは いはさくのかみ(今の発音では いわさくのかみ)。別名は記されない | 『日本書紀』は「磐裂神」と書く |
| 何に成ったか | 御刀の前(さき)に着いた血。それが湯津石村に走り就いて成る | 湯津石村の「ゆつ」は神聖・清浄の意とするのが定説 |
| 何をしたか | 記されていない。姿も言葉もない | 名から「岩を裂く」力を読み取る解釈がある |
| 裂く主は何か | 記されていない | 剣、雷、火と見る3つの解釈がある |
| 誰と並ぶか | 根拆神(ねさくのかみ)、石筒之男神(いはつつのをのかみ)。「三神」と注記される | 『日本書紀』の一書には、後ろの神々を親子でつなぐ伝えがある |
まん中の列を縦に読むと、成り立ちと名と並び順はあっても、行いにあたる欄は空いたままです。「岩を裂く神」という呼び方は右の列、つまり名を読み解いた側から出てきたものです。
石拆神は、伊邪那岐命の剣から成る8柱の先頭に名が挙がる神でもあります。8柱の分かれ方や数え方、剣そのものの名は 剣の八神 の記事にまとめたので、ここでは先頭の1柱だけに絞ります。
表記について一つ断っておきます。この記事は岩波文庫の本文に従って「石拆神」と書きますが、國學院大學の古事記ビューアーは「石析神」の字を採っています。どちらも同じ神を指します。
2. 御刀の前の血が走る――誕生を語るのは一文だけ
伊邪那美命(いざなみのみこと)を失った伊邪那岐命は、涙を流した後(泣沢女神)、帯びていた十拳剣(とつかのつるぎ)で子の迦具土神(かぐつちのかみ)の頸を斬ります。火の神の誕生からこの剣に至るまでの経緯は、火之迦具土神 の記事に順を追って書いてあります。石拆神が現れるのは、その直後です。
ここにその御刀の前に著ける血、湯津石村に走り就きて、成れる神の名は、石拆神。次に根拆神。次に石筒之男神
すると、剣の先に着いていた血が湯津石村へ飛んで取り着き、そこに成った神の名は石拆神、続いて根拆神、続いて石筒之男神である、という文です。
「御刀の前」の「前」は「さき」と読み、剣の先を指します。「走り就きて」は、國學院大學の古事記ビューアーの訓読では「たばしりつきて」と読まれています。「たばしる」は激しく飛び散ることを言う語です。血は下へ滴るのではなく、岩に向かって勢いよく飛んでいます。
この文で動いているのは血です。石拆神は、血が岩に着いたところに「成れる神」として名を呼ばれるだけで、自分からは何もしていません。どこの血が、どこに着いて成ったのか、名は何というのか。本文が伝えるのはそこまでです。
3. 湯津石村の「ゆつ」――数多い岩か、清らかな岩か
血が着く先の「石村(いはむら)」は、岩の群れのことです。読み方が問題になってきたのは、頭の「湯津(ゆつ)」のほうでした。
國學院大學の古事記ビューアーの注釈によれば、『日本書紀』は第五段の一書第六と第七で、これを「五百箇磐石(いほついはむら)」と書いています。本居宣長は『古事記伝』で、師の説として「五百(いほ)」を約めて「ゆ」と言うのだと述べました。この読みに従えば、湯津石村は五百もの岩、つまり数多くの岩の群れということになり、長くそう解されてきました。
けれども、この見方には問題があるとされています。「ゆ」は神聖・清浄を表す「斎(ゆ)」の意だとする指摘が出てからは、「いほつ」と「ゆつ」は別々の語と見るのが定説になりました。湯津石村は、神聖な岩の群れということになります。
「ゆつ」を頭に置く語は、『古事記』のほかの場面にもあります。「湯津津間櫛(ゆつつまぐし)」や「湯津香木(ゆつかつら)」がそうで、岩だけに付く語ではありません。
もう一つ、注釈が指摘しているのは岩の働きです。『古事記』の湯津石村も、『日本書紀』一書第七の五百箇磐石も、剣から滴った血が神に成る際の媒介になっている、というのです。血は宙で神になるのではなく、岩に着いて、はじめて神の名が現れます。石拆神は、剣と血と岩の三つがそろったところに成る神です。
4. 「石」と「拆」――宣長は「石根拆」を二つに分けたと読んだ
名は「石」と「拆」の2字でできています。「石」は「いは」と読んで岩のこと、「拆」は「さく」、裂くことです。
「石」を頭に置く神は、神生みの初めのほうにもいました。石土毘古神です(石土毘古神・石巣比売神)。ただ、あちらは伊邪那岐命と伊邪那美命が二柱で生んだ神で、剣の血に成る石拆神とは場面も成り立ちも別です。
名の読み解きの出発点になったのは、やはり本居宣長の『古事記伝』です。宣長は、「石根拆(いはねさく)」という一つの言葉を二つに分けて2柱に名づけたもので、だから根拆神の「根」も石根のことだ、と述べました。「石根」は祈年祭の祝詞や『万葉集』に見える語です。この読みでは、石拆神の名は次の根拆神と合わせて一つの言葉になります。
國學院大學の古事記ビューアーの注釈によれば、宣長がこう述べて以来、2柱の名を岩石の意で理解することが広く行われています。「根」をめぐっては別の見方や問題も出されていますが、それは根拆神の側の話なので、根拆神 の記事で扱います。
見落とせないのは、宣長の読みを支持する立場のなかでも、どういう神なのかについては意見が割れていることです。刀剣の神と見るか、雷の神と見るか。名の区切り方が決まっても、裂く主は決まりません。
5. 裂く主は誰か――剣、雷、火の三つの読み方
國學院大學の神名データベースによれば、この名の解釈は大きく三つに整理できます。
剣が岩根を切り裂く
一つ目は、名を岩根を切り裂くことと取り、剣にちなむ名とする説です。血が着いていたのは剣の先で、8柱はまとめて御刀によって生まれた神とされていますから、場面とのつながりはこの説がいちばん直接的です。
落雷が岩石を裂く
二つ目は、岩石を裂くほどの威力、すなわち落雷の威力を表すとする説です。裂く主は空から来ます。この説は剣の説と対立するものではなく、石拆神は剣の神であるとともに雷の神でもあるとされ、雷を刀剣の霊と見る説もあります。同じ湯津石村に成る剣の本の3柱に、「雷」の字を名に持つ建御雷之男神がいることは、本文の並びから確かめられます。
焔が鉱石を溶かす
三つ目の出発点は、血の色です。火の神の血を赤い焔に見立て、その焔が鉱石を溶かすところから、岩をも裂く威力を備えた刀剣が生まれることを言う名だ、と解します。力のもとは火、行き着く先は刀剣です。
三つは、剣から雷へ、火から剣へと互いに行き来していて、一つを選べば残りが消えるという関係ではありません。そして三つとも、名と場面の組み合わせから導かれた解釈です。本文は、何が岩を裂くのかを述べていません。
6. 血が岩に着くということ――石が火を発する由来と読む解釈
名とは別に、血が岩に着くという書き方そのものにも解釈があります。割れた岩のなかに火の神の血が潜り込み、それで岩石が火を発するようになった、その由来を語っているとするものです。石を打つと火が出るのはなぜか、という問いへの答えとして読むわけです。
この解釈では、岩は裂かれるだけでなく、火を宿すものになります。『日本書紀』の一書第八に、火の神の血によって草木や砂石が火を含むようになったという伝えがあることは、火之迦具土神 の記事で触れました。『古事記』の本文はそうした由来を語りませんが、岩に血が着くという一句を同じ向きで読む解釈です。
ここまでの説は、どれも名と一句を手がかりにしています。國學院大學の古事記ビューアーの注釈も、わずかな分量の記述であるのに、これらの神を理解するには神名の解釈に頼らざるを得ない、という難しさを指摘しています。
7. 「三神」という注記――対の2柱に、もう1柱を加えて数える
原典は、この3柱の名を挙げたところに「三神」と注記しています。
名の形だけを見れば、まとまっているのは「拆」で終わる石拆神と根拆神の2柱で、石筒之男神は形が違います。それでも本文は、3柱をひとまとまりとして数えています。
國學院大學の古事記ビューアーの注釈によれば、『日本書紀』と比べると石筒之男神の位置は揺れていて、その神まで含めて「三神」とするところに『古事記』の主張を読み取るべきだ、とする見方があります。剣の本の血から成る神々も、同じく「三神」です。柄の血から成る神は2柱で、三神にはなっていません。これについては、湯津石村を介さずに成るからではないか、という見方があります。
並び方にも注意が要ります。3柱は「次に」「次に」で順に名を呼ばれる、同じ血、同じ岩、同じ場面に成る神で、『古事記』では親と子の関係ではありません。石筒之男神 の名と位置は、その神の記事で改めて扱います。
8. 『日本書紀』の磐裂神――一書ごとに形が変わる
『日本書紀』では、字が「磐」と「裂」に変わり、磐裂神と書かれます。火の神を斬る話は本文にはなく、一書(あるふみ)、つまり本文に添えられた別の伝えに出てきます。國學院大學の古事記ビューアーの注釈が引くところでは、伝えごとに形が違います。
- 第五段の一書第六。 剣の「鋒(さき)」から垂れる血が「激越(そそ)」いて神と為り、磐裂神、次に根裂神、次に磐筒男命の名が挙がります。別の伝えとして、磐筒男命と磐筒女命とする、とも添えられています。
- 第五段の一書第七。 軻遇突智を斬ったときの血が激越いて、天八十河中にある五百箇磐石を染め、それによって磐裂神が化成ります。次に根裂神。その先は、児の磐筒男神、次に磐筒女神、児の経津主神と続きます。
一書第六は、剣の先から血が垂れるという点で『古事記』に近い形です。一書第七は、岩が血に染まって神が成るという点が『古事記』と通じますが、磐筒男神から先を「児」の語で結び、親子の系譜にしています。このほか、第九段の本文と『先代旧事本紀』の陰陽本紀には、「磐裂根裂神」と二つをつなげた形の名も見えます。
大事なのは、これらを一つの系譜に溶かし込まないことです。『古事記』の石拆神は、子を持つとも、誰かの祖であるとも書かれていません。経津主神へつながるのは『日本書紀』の一書の伝えであって、『古事記』の話ではありません。
9. 裂け目を眺める――本文・学説・考察を分けたうえで
ここまでを三つの層に分けておきます。
本文にあるのは、剣の先の血が湯津石村に走り就いて石拆神が成ったことと、続く2柱と合わせて「三神」と数えられることです。「ゆつ」を斎と取る読み、「石根拆」を二つに分けたとする宣長の読み、裂く主をめぐる三つの解釈、石が火を発する由来とする解釈は、学説です。
以下は考察です。
石拆神の名に入っているのは、「裂く」という一瞬の動きです。そして本文は、裂かれた岩の姿も、裂いた神の姿も描きません。出来事の前と後は書かれず、裂ける瞬間だけが名として残されている、と見ることができます。
剣、雷、火。三つの解釈は裂く主を別々に立てますが、起こることはどれも同じです。動かないはずの硬いものに、一筋の裂け目が入ります。解釈が三つに分かれるのは、名の芯にあるのが裂く主ではなく、裂け目のほうだからではないでしょうか。
裂け目は、壊れた跡であると同時に、何かが出てくる口でもあります。岩に潜った血が火になるという解釈は、その一例です。石拆神が成る場面も、妻との別れと剣という厳しい出来事のただなかにありながら、そこから8柱の名が現れてきます。裂けることと現れることが、一つの場面に重なっています。
もっとも、『古事記』がそう意図したと言える根拠はありません。確かなのは、岩を裂く場面を持たない神に、「石拆」という名だけが与えられているということです。
名の読み解きは、次に並ぶ 根拆神 へ続きます。伊邪那岐命がこの後たどる道は 伊邪那岐命 の記事で、島々と神々が現れた順は 国生み・神生み(まとめ) の一覧で確かめられます。
まとめ
- 石拆神は、伊邪那岐命が迦具土神を斬った剣の先の血が、湯津石村に走り就いて成った神です。本文に記されるのは成り立ちと名だけで、岩を裂く場面はありません。
- 湯津石村の「ゆつ」は、かつては「五百」を約めたものと解されましたが、今は神聖・清浄を表す「斎」の意とするのが定説です。岩は、血が神に成る際の媒介の働きをしているとされます。
- 本居宣長は、「石根拆」という言葉を二つに分けて石拆神・根拆神の名にしたと読みました。以来、2柱の名を岩石の意で理解することが広く行われています。
- 裂く主については、剣が岩根を切り裂くとする説、落雷の威力とする説、火の神の血を焔と見て刀剣の誕生を表すとする説があります。本文は裂く主を述べていません。
- 本文は石筒之男神までを「三神」と注記します。3柱は同じ場面に成る神で、『古事記』では親子ではありません。
- 『日本書紀』は磐裂神と書き、一書第七には磐筒男神から経津主神へ「児」でつなぐ伝えがあります。『古事記』の話とは分けて読みます。
参考文献
- 倉野憲司 校注『古事記』岩波文庫
- 坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋 校注『日本書紀(一)』岩波文庫
