伊豆能売(いずのめ)は、黄泉の国から戻った伊邪那岐命(いざなぎのみこと)の禊(みそぎ)で、神直毘神・大直毘神に続いて「その禍を直そう」として生まれた3柱目の存在です。ところが『古事記』に残るのは、ほとんど名前だけです。一般的な校訂本文では名の後に「神」の字がなく、『日本書紀』には同名の神が見えません。この記事では、「神」の字をめぐる本文の問題、「伊豆」を「稜威(いつ)」と結ぶ説、女神・巫女・清浄の象徴といった諸説をたどり、伊豆能売が禍から清浄へ移る境界に置かれた意味を考えます。
1. 名前だけが残された17番目の存在
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 神名(古事記) | 伊豆能売(校訂本によっては伊豆能売神) |
| 神名(日本書紀) | 記載なし |
| 読み | いずのめ |
| 親神(生まれた由来) | 伊邪那岐命の禊によって成った存在 |
| 誕生の場面 | 竺紫の日向の橘の小門の阿波岐原。中つ瀬で身をすすいだとき、大直毘神の次に出現 |
| 神格・性格 | 禍を直す働きを担う。清浄・祓いと結び付けて解釈される |
| 別名や同一視される神 | 確実な同一視はない。祓戸の神と関連づける説がある |
伊豆能売は、『古事記』上巻の禊の段に一度だけ名前が出てくる存在です。禊で生まれた26柱のうち17番目にあたり、禍を直すために生まれた3柱の最後に置かれています。
この存在について『古事記』が語っているのは、誕生の順番だけです。何をしたか、どのような姿かは書かれていません。しかも名の書き方が、前後の神々と一つだけ違っています。そのため古くから、伊豆能売は神なのか、どのような性格の存在なのか、という点が論じられてきました。
2. 原文の「次に伊豆能売。」を読む
伊豆能売の名が出てくるのは、次の一文の末尾です。すぐ後に、水の底での禊の場面が続きます。
次に其の禍を直さむとして成れる神の名は、神直毘神。次に大直毘神。次に伊豆能売。
次に水底に滌ぐ時に成れる神の名は、底津綿津見神。次に底筒之男命。
意味を取ると、「次に、その禍を直そうとして生まれた神の名は神直毘神、次に大直毘神、次に伊豆能売である。次に水の底で身をすすいだときに生まれた神の名は底津綿津見神、次に底筒之男命である」となります。
黄泉の穢れから禍津日神が生まれ、それを直す神々が続くという場面の流れは、神直毘神の記事で詳しく扱っています。ここで注目したいのは、伊豆能売の名が「禍を直す」誕生の列の最後にあり、その次の一文からはまったく別の場面、つまり底津綿津見神に始まる海の神々の誕生へ移っていることです。伊豆能売は、2つの場面の継ぎ目に名前を残しています。
3. なぜ「神」の字がないのか
伊豆能売をめぐる最大の論点は、名前の書き方です。
上の原文を見ると、直前の「神直毘神」「大直毘神」にも、直後の「底津綿津見神」にも、名の後に「神」の字が付いています。ところが一般的な校訂本文では「次に伊豆能売」とだけあり、「神」がありません。
これについては、2つの見方があります。
- 脱落説:写本を伝える過程で「神」の字が抜け落ちたと見る説。この立場から「伊豆能売神」と校訂する本もあります。
- 意図的表記説:もともと「神」を付けない存在として書かれていたと見る説。岩波文庫など、「伊豆能売」のままとする本もあります。
どちらが正しいかは決着がついていません。もし意図的な表記だとすれば、伊豆能売は神というより、神に仕えて祓いを行う巫女のような存在として描かれている、と考えることもできます。禍を直す神々の働きを人の側で受け止め、清浄へと渡していく役目です。一方、脱落にすぎないのであれば、伊豆能売も直毘神と同じく「禍を直す神」の1柱として読むことになります。一文字の有無で、存在の性格そのものが変わってしまうところに、この名前の難しさがあります。
4. 「伊豆」と「能売」の読み解き
『古事記』は伊豆能売の名の意味を説明していません。以下は後世の解釈と諸説です。
「伊豆(いず)」 音を写した表記で、意味は明らかではありません。有力なのは、「稜威(いつ)」あるいは「厳(いつ)」と結び付ける説です。「いつ」は神聖で威力のある状態、清らかで侵しがたい力を表す古い言葉です。ただし「いつ」と「いず」の対応は確実とはいえず、あくまで一つの説です。
「能売(のめ)」 「能」は「の」という助詞、「売」は「め」、つまり女性を表す語と読むのが一般的です。神名の末尾の「め」は女神を示すことが多く、伊豆能売も女性的な存在と見られています。
2つを合わせると、「神聖な力を持つ女性」という意味になります。直毘神の名が「直す働き」を表しているのに対し、伊豆能売の名は働きではなく「清らかさを帯びた状態」を表しているとも読めます。この違いが、次に見る「直しの結果」という解釈につながっていきます。
5. 禍2柱に対して直し3柱――1つ多い存在
禊の段の構成を数で見ると、禍津日神は2柱、それを直す側は3柱です。禍に対して、直しの側が1つ多いことになります。
直毘神が禍津日神と「八十/神」「大/大」で一対一に向かい合うとすれば、伊豆能売には向かい合う禍の神がいません。そこで、神直毘神と大直毘神が「直す」働きを担い、伊豆能売はそのあとに現れる、直しの結果としての清浄な状態そのものを表す、と読む説があります。
この「1つ多い」構成は、『古事記』ならではのものです。『日本書紀』神代上 第五段の一書第六にある禊の記事では、直しの神は神直日神・大直日神の2柱で終わり、伊豆能売に相当する神は見えません。なぜ一方にだけあるのかは分かりませんが、『古事記』が禍と直しの対に、あえてもう一つの存在を添えていることは、両書を比べるとはっきりします。
6. 禍と清浄の境目に立つということ
伊豆能売の直前までは、黄泉の穢れとそれを直す神々、つまり「禍」をめぐる神々が並びます。直後からは、水の底・中・上で生まれる海の神々、そして目や鼻を洗って生まれる三貴子という、清浄な神々が続きます。伊豆能売は、禍の側から清浄の側へと場面が移る、まさにその境目にいます。
この位置をどう読むかで、伊豆能売の像は変わります。清浄を体現する女神と見る説、祓いを行う巫女と見る説、禍から清浄への「移行」そのものを象徴する存在と見る説などがあり、いずれも断定はできません。
ただ、どの説に立っても共通して言えることがあります。禊は、禍を「消去」して元に戻す行為ではなく、禍を直して清浄へ「移行」する行為として描かれている、ということです。そのことは神々の並び方から読み取れ、伊豆能売はその移行の瞬間に名前を与えられた存在だと言えます。
7. 祓戸の神との関係と祀られ方
伊豆能売は原典に記述が少ないため、固有の信仰やご利益がはっきりと伝わっているわけではありません。禍を直すために生まれた存在であることから、祓い清めや心身の浄化、災いを転じて清らかな状態へ戻すこと、といった願いと結び付けて語られることがあります。
大祓詞には、罪や穢れを川から海へ、海から根の国へと運び去る祓戸の神々が登場します。伊豆能売をこうした祓戸の神と関連づける説がありますが、『古事記』の伊豆能売と大祓詞の神々を直接つなぐ記述は原典にはなく、後世の解釈として紹介されるものです。
伊豆能売を単独で主祭神として祀る神社は、ほとんど知られていません。名前が『古事記』に一度しか出てこないうえ、『日本書紀』にも見えないため、祭祀の対象として広まらなかったと考えられます。直毘神と禍津日神を祀る福岡の警固神社でも、祭神に伊豆能売の名は含まれていません。
8. 名前しか残らない存在を読む
伊豆能売の神話で印象的なのは、禍が直されたあとに、もう一つの存在が置かれていることです。禍が生まれ、直しの神が生まれ、それで終わりではなく、直された状態が清浄へと渡っていく移行の瞬間にも名前が与えられています。
これは、失敗や困難のあとに経験することにも重なります。問題を解決したからといって、すぐに何事もなかった状態に戻るわけではありません。直したあとに、少しずつ気持ちが清まり、次の段階へ移っていく時間があります。伊豆能売は、その「移行」の時間に光を当てた存在として読むことができるでしょう。
名の後に「神」の字がないという事実も、静かに考えさせるものがあります。目立たず、名前しか残らず、それでも清浄への移り変わりを担っている。そのような存在が禊の物語の要所に置かれていることは、目に見える働きだけが大切なのではない、という古代の人々の感覚を伝えているように思われます。
禍の神の側については八十禍津日神、禊を行った伊邪那岐命、禊で生まれた26柱の全体像はイザナギの禊で生まれた神々一覧 の一覧記事からたどることができます。
まとめ
- 伊豆能売は『古事記』に一度だけ名が出る存在で、禊の26柱の17番目、直しの3柱の最後に置かれています。
- 前後の神々と違って名の後に「神」の字がなく、脱落説と意図的表記説が並び立ち、決着はついていません。
- 「伊豆」を「稜威(いつ)」、「売」を女性と読み、神聖な力を持つ女性的存在と見る説が有力です。
- 禍2柱に対して直しが3柱という「1つ多い」構成は『古事記』だけのもので、『日本書紀』には相当する神が見えません。
- 直後から海の神々の誕生に移るため、禍と清浄の境目に立つ存在として、女神・巫女・移行の象徴など諸説があります。
- 祓戸の神と結ぶ説はありますが、単独で祀る神社はほとんど知られていません。
参考文献
- 倉野憲司 校注『古事記』岩波文庫
- 次田真幸 全訳注『古事記(上)』講談社学術文庫
- 坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋 校注『日本書紀(一)』岩波文庫
- 本居宣長『古事記伝』(『直毘霊』を含む)
