建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)は、伊邪那岐命(いざなぎのみこと)が禊(みそぎ)の最後に鼻を洗ったとき生まれた、三貴子の末の神です。父から海原を任されたのに、それを治めようとせず、あごひげが胸に届くほどになるまで泣き続けました。その泣き声は山を枯らし、川や海を干上がらせ、ついに父の怒りを買って追い払われます。高天原での騒動も八岐大蛇退治も、すべてはこの「泣いて追放される」場面から始まります。この記事では、鼻から生まれた誕生と、泣きわめいてから追放されるまでを中心に、名前の意味や『日本書紀』での表記、祀る神社までを見ていきます。追放後、高天原に昇って姉と向き合う場面は天照大御神と須佐之男命の誓約の記事で扱います。
1. 建速須佐之男命とは(基本情報)
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 神名(古事記) | 建速須佐之男命(速須佐之男命、須佐之男命とも) |
| 神名(日本書紀) | 素戔嗚尊 |
| 読み | たけはやすさのおのみこと |
| 親神(生まれた由来) | 伊邪那岐命が禊で御鼻を洗ったときに成った神 |
| 誕生の場面 | 竺紫の日向の橘の小門の阿波岐原。禊の最後、三貴子の第三 |
| 神格・性格 | 海原を任された神。荒々しく、後に英雄的な性格も見せる |
| 別名や同一視される神 | 素戔嗚尊(『日本書紀』の表記)。後世には牛頭天王と習合 |
建速須佐之男命は三貴子の第三の神で、禊で生まれた26柱の最後、26番目にあたります(イザナギの禊で生まれた神々一覧)。『古事記』では「建速須佐之男命」「速須佐之男命」「須佐之男命」と場面によって呼び方が変わります。
三貴子の中で、須佐之男命は最も多くの物語を持つ神です。父の命に背いて追放され、高天原で乱暴を働いて姉を岩戸に隠れさせ(天石屋戸)、地上に降りて八岐大蛇を退治する(八岐大蛇退治)。この長い物語の出発点が、禊の直後の「泣きわめいて追放される」場面です。
2. 鼻から生まれ、海原を任される
黄泉の国から逃げ帰った伊邪那岐命が、阿波岐原の禊の最後に顔を洗うと、左の目から天照大御神、右の目から月読命、そして鼻から須佐之男命が生まれました。父は三柱をそれぞれ高天原・夜の食国・海原の主に定めます。この誕生と分治の場面の原文全体は、天照大御神の記事にまとめています。須佐之男命に関わるのは次の二か所です。
……次に御鼻を洗ひたまふ時に成れる神の名は、建速須佐之男命。
……次に建速須佐之男命に詔りたまひしく、「汝命は、海原を知らせ」と事依さしき。
現代語では、「鼻を洗ったときに生まれた神の名は建速須佐之男命」「建速須佐之男命には『あなたは海原を治めなさい』と委ねた」となります。
須佐之男命は、禊の神々の最後に生まれ、三柱の割り当ての最後に海原を受け取りました。ここまでは姉二柱と同じように、父の言葉を受けただけの存在です。物語が動き出すのは、この直後からです。
3. 青山を枯らし、河海を干すほどの泣き声
追放の場面 は、分治の直後に続きます。『古事記』の語るところを、自分の言葉でまとめます。
天照大御神と月読命は父の命のとおりにそれぞれの領域を治めましたが、須佐之男命だけは任された海原を治めず、あごひげが胸に届くほどになるまで泣きわめきました。その泣き方は激しく、青々とした山を枯れ山にし、川や海を泣き干すほどでした。そのため悪い神々の騒ぐ声が夏の蠅のように満ち、あらゆる災いが起こりました。
伊邪那岐命が「どうしてお前は泣いてばかりいるのか」と問うと、須佐之男命は「私は亡き母の国、根之堅州国(ねのかたすくに)へ行きたいので泣いているのです」と答えました。伊邪那岐命はたいへん怒り、「それならばお前はこの国に住んではならない」と言って、須佐之男命を追い払いました。
この場面で注目したいのは、泣くという個人の感情が、世界そのものを壊していく描写です。山は枯れ、川と海は干上がり、悪い神々の声があふれます。ひと柱の神の嘆きが、天変地異の規模で描かれているのです。
4. 父一柱から生まれた神が「妣の国」を慕う謎
「妣の国」へ行きたいと泣いたこと については、考えるべき点があります。『古事記』では、須佐之男命は伊邪那岐命の禊から一柱で生まれた神であり、伊邪那美命が母であるとは書かれていません。それにもかかわらず、須佐之男命は「妣(はは)の国」を慕って泣きます。
この食い違いは古くから注目され、伊邪那美命(伊邪那美命)を母とする伝承が背景にあるとする説や、根之堅州国を黄泉の国と重ねて見る説が立てられています。いずれも考察であり、原典はその理由を説明していません。
5. 従う二柱と、従わない一柱
海原を任されながら治めなかったこと が、この神の物語を動かします。天照大御神と月読命(月読命)が命令のとおりに領域を治めたのに対し、須佐之男命だけが背きました。三貴子の分治は、三柱に均等に領域を与える場面でありながら、同時に「従う二柱と従わない一柱」を描き分ける場面でもあります。
「鼻」から生まれたこと も、姉二柱が「目」から生まれたことと対になっています。目が光を受け取る器官であるのに対し、鼻は息が通る器官です。そこから、須佐之男命を風や嵐の神と見る説が立てられていますが、『古事記』にはそうした説明はなく、後世の考察です。
追放されたあと、須佐之男命は姉の天照大御神のもとへ昇っていきます。高天原での天照大御神と須佐之男命の誓約、天石屋戸へと続く物語は、それぞれの記事で扱います。
6. 「建」「速」「須佐」の読み解きと、『日本書紀』の素戔嗚尊
『古事記』は須佐之男命の名の由来を説明していません。ここからは、神名の語構成にもとづく解釈です。
「建(たけ)」「速(はや)」 は、いずれも勇猛さ、激しさ、素早さを表す美称と解されています。三つの呼び名のうち最も長い「建速須佐之男命」は、この神の荒々しい性格を二重に強調した形といえます。
「須佐(すさ)」 については、大きく二つの説があります。一つは、「荒(すさ)ぶ」「進む」といった語と結び付け、荒れ狂う、勢いよく進むという性質を表すと見る説です。もう一つは、出雲国の須佐という地名に由来すると見る説で、須佐之男命を祀る須佐神社が島根県出雲市にあることと関係づけて語られます。いずれも考察であり、断定はできません。
「男(お)」 は男性を表し、「命(みこと)」は尊称です。「須佐の男の神」というのが、名の基本的な構造です。
『日本書紀』の 「素戔嗚(すさのお)」 は、同じ音に別の漢字を当てた表記と解されています。『日本書紀』本文では、素戔嗚尊は禊ではなく伊弉諾尊・伊弉冉尊の夫婦神が共に生んだ子とされ、禊から生まれる形は第五段の一書第六に見えます(詳しくは天照大御神)。4節で見た「妣の国」の食い違いを考えるときにも、この記紀の違いは念頭に置いておきたいところです。
7. 祇園の神、武蔵の一宮、出雲の須佐――信仰と神社
須佐之男命は、荒々しい力で災いを祓う神として、厄除け、疫病除け、災難除けと結び付けられてきました。後に八岐大蛇を退治することから、武運や勝負運の神ともされています。中世には疫病を祓う牛頭天王(ごずてんのう)と習合し、祇園信仰の神として広く祀られました。また、地上で妻を得て家庭を築く物語から、縁結びや夫婦円満の神ともされています。
八坂神社(京都府京都市東山区) は、祇園信仰の中心として素戔嗚尊を祀る神社です。全国の八坂神社・祇園社の総本社とされ、祇園祭で知られています。
氷川神社(埼玉県さいたま市大宮区) は、須佐之男命を主祭神とする神社で、武蔵国の一宮として関東一円に多くの分社を持ちます。
須佐神社(島根県出雲市) は、須佐之男命を主祭神とし、社名に「須佐」の名を持つ神社です。須佐之男命の御魂を祀る社として、出雲の信仰の中で重んじられてきました。
8. 与えられた場所を拒んだ神の出発
須佐之男命の誕生から追放までの場面で目を引くのは、「与えられた役割を拒む」という姿です。三貴子はそれぞれに領域を与えられましたが、須佐之男命だけはそれを受け取らず、別の場所へ行きたいと泣き続けました。その結果、世界に災いが満ち、父の怒りを買って追放されます。
この姿は、一見すると失敗の物語です。しかし『古事記』の続きを知る読者には、この追放が地上での活躍の始まりであることも分かります。与えられた場所に収まらなかった神が、自分の場所を見つけていく。その出発点として、この場面を読むこともできます。
泣き声が山を枯らし海を干したという描写も、あらためて振り返っておきたいところです。感情を抑えられなかった神が、やがて大蛇を退治する英雄となる。その落差こそが、この神の物語の面白さといえるでしょう。
まとめ
- 建速須佐之男命は鼻から生まれた三貴子の末の神で、禊の26柱の最後に誕生し、父から海原を委ねられました。
- 海原を治めずにあごひげが胸に届くまで泣き続け、山を枯らし川や海を干すほどの災いを招きました。
- 泣く理由を「亡き母の国、根之堅州国へ行きたい」と答え、怒った父に追い払われました。
- 父一柱から生まれた神が「妣の国」を慕う点には、伊邪那美命を母とする伝承を想定する説などがあります。
- 名の「建」「速」は勇猛さの美称、「須佐」は荒ぶる性質説と出雲の地名説があり、『日本書紀』では素戔嗚尊と書かれます。
- 八坂神社(京都府京都市東山区)、氷川神社(埼玉県さいたま市大宮区)、須佐神社(島根県出雲市)に祀られています。
ゆかりの社をたずねるなら:氷川神社と近くの宿、八坂神社と近くの宿(神社めぐりと歴史旅の帳)
参考文献
- 倉野憲司 校注『古事記』岩波文庫
- 次田真幸 全訳注『古事記(上)』講談社学術文庫
- 坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋 校注『日本書紀(一)』岩波文庫
