飽咋之宇斯能神(アキグイノウシ)とは?イザナギの冠から生まれた神【古事記】

飽咋之宇斯能神(あきぐいのうしのかみ)のアイキャッチ画像

飽咋之宇斯能神(あきぐいのうしのかみ)は、伊邪那岐命が禊の前に投げ捨てた冠から成った神です。冠は頭に着ける物で、身に着ける物の中では最も高い位置にあります。名前の「飽咋(あきぐい)」は「飽くまで食う」と読まれることがあり、そこから「穢れを食い尽くす神」と解する説も生まれました。ただ、この読み自体を疑う注釈もあります。この記事では、冠という品物と「飽咋」という名の二つを軸に、確かに言えることと推測にとどまることを分けて見ていきます。

目次

1. 飽咋之宇斯能神の基本情報

項目内容
神名飽咋之宇斯能神(あきぐいのうしのかみ)
成った物伊邪那岐命が投げ捨てた冠
12 柱の中の順番6 番目。褌の道俣神の次、左の手纏の奥疎神の前
神名の読み「飽くまで食う大人」と読む説と、語義未詳とする注釈がある
同じ「宇斯」を持つ神衣から成った和豆良比能宇斯能神
『日本書紀』同名の神は見えない。一書第六に、音の似た開囓神(褌から成る)がある

黄泉の国から逃げ帰った伊邪那岐命が「穢れた国に行ってしまった」と言って身を清めることにし、持ち物や衣服を次々に投げ捨てていく場面の全体は、イザナギの禊で生まれた神々一覧 にまとめてあります。

2. 褌の次、手纏の前に冠から成る

『古事記』の本文では、この神は次のように現れます。

次に投げ棄つる御褌に成れる神の名は、道俣神。次に投げ棄つる御冠に成れる神の名は、飽咋之宇斯能神。次に投げ棄つる左の御手の手纏に成れる神の名は、奥疎神。

「褌を投げ捨てて成った神は道俣神。冠を投げ捨てて成った神は飽咋之宇斯能神。左手の手纏(腕輪)を投げ捨てて成った神は奥疎神」という意味です。

投げ捨てる順番は、杖、帯、袋、衣、褌、そして冠です。ここまでは 1 つの品から 1 柱ずつ神が成り、冠の次の手纏からは、左右それぞれ 3 柱ずつまとめて成る形に変わります。本文がこの神について語るのはこの一句だけで、何を司るのか、誰が祀ったのかといった説明はありません。

3. 「飽咋」は「飽くまで食う」か

神名は「飽咋(あきぐい)」「之(の)」「宇斯(うし)」「能(の)」「神」に分けられます。「之」と「能」はどちらも助詞の「の」を表す借字で、全体は「飽咋の大人の神」という形と解されています。

「飽咋」を「飽くまで食う」、つまり十分に食べ尽くすという意味に読む説があります。この読みに立てば、この神は「穢れを残さず食い尽くす主」となり、禊の場で穢れを取り除く働きを持つ神と解釈されます。冠は頭に着ける物なので、頭にある口と「食う」という行為を結び付けた連想だ、という説明もなされています。

一方で、「飽咋」の語義は分からないとして判断を保留する注釈書もあります。神名の文字は音を写した借字である可能性が高く、「飽」や「咋」の漢字の意味をそのまま当てはめてよいとは限らないからです。どちらの立場も成り立つ以上、「穢れを食い尽くす神」という像は、後世の注釈による一つの解釈として受け止めておくのが確かです。

4. 「宇斯(大人)」を持つもう1柱

「宇斯」は「大人(うし)」で、主や貴人を敬って呼ぶ語と解されています。12 柱の中でこの語を名に持つのは、衣から成った 和豆良比能宇斯能神と、冠から成ったこの神の 2 柱だけです。

衣の神が「煩ひの大人」、冠の神が「飽くまで食う大人」と読まれるとすれば、脱いだ衣に移った煩いを、冠の神が食い尽くす、という一続きの流れを想像することもできます。衣と冠という 2 か所に「大人」の名を持つ神が配されているのは、目を引く点と言えます。ただし、これは神名の解釈を二重に積み重ねた上での読みで、断定はできません。

5. 冠という品物が示すもの

伊邪那岐命は、いきなり水に入るのではなく、まず身に着けていた物を全て取り去ります。黄泉の穢れは体だけでなく、そこへ行ったときに着ていた物にも付いていると考えられていたのでしょう。脱ぎ捨てた物が神になるという展開は、穢れを含んだ物が、神という別の存在に変わることで処理される、という考え方を示しているとも読めます。

その中で冠は、頭に着ける、最も高い位置の品です。冠を外すことは、身にまとった物を上から下まで取り去った、という節目を示していると考えられます。黄泉の国で伊邪那岐命が火をともすのに使ったのは、髪に刺していた櫛の歯でした。頭のまわりが黄泉の穢れと直接かかわった場所だったことを思えば、冠を脱ぎ捨てて神が成る場面に、穢れを断ち切る意味を読み取ることもできるかもしれません。これも物語の組み立てから導いた考察で、原典に書かれた説明ではありません。

6. 「1品1柱」の最後という位置

12 柱を並べると、杖から成った 衝立船戸神を 1 番目として、この神は 6 番目にあたります。直前の 道俣神までと同じく、1 つの品から 1 柱が成る形の、最後の神です。

次の手纏からは、1 品から 3 柱ずつが成り、名前も 奥疎神をはじめ「沖」や「岸辺」の海辺の言葉に変わります。飽咋之宇斯能神は、衣服や持ち物から 1 柱ずつ成る前半と、手首の飾りから 3 柱ずつ成る後半との、切れ目の手前に立つ神と言えます。

7. 開囓神と似た音、違う品物

『日本書紀』神代上 第五段の一書第六にも、伊弉諾尊が投げた物から神が成る話があり、その中に褌から成った開囓神(あきくいのかみ)の名が見えます。「あきくい」という音は「飽咋(あきぐい)」とよく似ていて、両者を同じ神と見る考え方があります。

ただし、『古事記』では冠から飽咋之宇斯能神、褌から道俣神が成るのに対し、一書では褌から開囓神が成るとされ、対応する品物が一致しません。神名の数や顔ぶれも両書で異なります。同じ神を別の形で伝えたものと考えることはできても、断定する根拠は原典にはありません。飽咋之宇斯能神という名そのものは『日本書紀』に見えない、というのが確かなところです。

8. 肩書きを脱ぐという読み方

この神について、古くからの信仰や祭祀の記録はほとんど知られておらず、主祭神として祀る神社もほとんど知られていません。「穢れを食い尽くす神」という解釈から、厄除けや祓いの神として語られることはありますが、伝統的な信仰の裏付けがあるわけではありません。

それでも、「冠を脱ぐ」という動作から読み取れることはあります。冠は古くから身分や役割のしるしでもありました。親神の 伊邪那岐命は、身を清める前に、その冠を自ら外して投げ捨てます。穢れを落とすには、まず自分を飾り、守っている物を手放さなければならない。何かを立て直そうとするとき、肩書きや体裁を一度脇に置くことで、初めて見えてくるものがあるのかもしれません。

まとめ

  • 飽咋之宇斯能神は伊邪那岐命が投げ捨てた冠から成った神で、12 柱の 6 番目、1 品 1 柱の形の最後にあたります。
  • 「飽咋」を「飽くまで食う」と読み、穢れを食い尽くす神とする説がある一方、語義未詳とする注釈もあります。
  • 「宇斯(大人)」の名を持つのは、衣の和豆良比能宇斯能神とこの神の 2 柱だけです。
  • 最も高い位置の品である冠を外すことは、身にまとった物を取り去る節目と読むことができます。
  • 『日本書紀』一書の開囓神と音は似ていますが、成った品物が違い、同じ神と断定はできません。

参考文献

  • 倉野憲司 校注『古事記』岩波文庫
  • 次田真幸 全訳注『古事記(上)』講談社学術文庫
  • 西宮一民 校注『古事記』新潮日本古典集成
  • 坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋 校注『日本書紀(一)』岩波文庫
この記事が役に立ったらシェアしてもらえると嬉しいです
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!
目次