奥疎神(おきざかるのかみ)は、伊邪那岐命が禊に入る前、左の手首から外して投げた手纏(たまき、腕輪)から成った神です。左の手纏からは 3 柱、右の手纏からも 3 柱が生まれ、合わせて 6 柱が「沖」と「岸辺」に分かれて向かい合います。奥疎神はその 6 柱の先頭に名が挙がる神で、この記事では、神名の読み方に加えて、6 柱全体に共通する対の構造、『日本書紀』との関係、信仰の事情もまとめて扱います。手纏の他の 5 柱の記事では、共通する部分はここを参照する形にしています。
1. 奥疎神の基本情報
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 神名(古事記) | 奥疎神 |
| 神名(日本書紀) | 同名の神は見えない |
| 読み | おきざかるのかみ |
| 親神(生まれた由来) | 伊邪那岐命が投げ捨てた左の御手の手纏から成った |
| 誕生の場面 | 竺紫の日向の橘の小門の阿波岐原での禊の直前。冠から飽咋之宇斯能神が生まれた次 |
| 神格・性格 | 原典に記述なし。神名から「沖へ遠ざかる神」と解する説がある |
| 別名や同一視される神 | 特に知られていない。右の手纏から成った辺疎神と対をなす |
黄泉の国から戻った伊邪那岐命が、身に着けていた物を一つずつ投げ捨てて神を成していく場面の流れは、イザナギの禊で生まれた神々一覧 にまとめてあります。杖から冠までの 6 品からは 1 品に 1 柱ずつ神が成りましたが、手纏に来たところで、1 つの品から 3 柱が続けて成る形に変わります。奥疎神は、その切り替わりの最初に立つ神です。
2. 左の手纏から最初に名を呼ばれる神
『古事記』の本文で、左右の手纏の 6 柱が現れるのは次の箇所です。
次に投げ棄つる左の御手の手纏に成れる神の名は、奥疎神。次に奥津那芸佐毘古神。次に奥津甲斐弁羅神。次に投げ棄つる右の御手の手纏に成れる神の名は、辺疎神。次に辺津那芸佐毘古神。次に辺津甲斐弁羅神。
意味は「左手の手纏を投げ捨てて成った神は奥疎神、続いて奥津那芸佐毘古神、奥津甲斐弁羅神。右手の手纏を投げ捨てて成った神は辺疎神、続いて辺津那芸佐毘古神、辺津甲斐弁羅神」です。
品物の名が出るのは、左と右の最初の神のところだけです。2 柱目と 3 柱目は「次に」で続くだけなので、同じ手纏から成ったと読むのが自然です。つまり奥疎神は、「左の御手の手纏」という品物の名と直接結び付けて記された、左側でただ 1 柱の神ということになります。本文がこの神について語るのはここまでで、何を司るのか、その後どうなったのかは書かれていません。
3. 「沖に離る」という名を読む
神名は「奥(おき)」と「疎(さかる)」に分けて読まれています。
「奥」は沖、つまり岸から遠く離れた海面のことと解されています。「疎」は「離る(さかる)」で、遠ざかるという意味です。二つを合わせると「沖に離る」、沖のほうへ遠ざかっていく神という読みになり、注釈書ではこれが一般的な理解です。
なぜ腕輪から「遠ざかる」神が成るのかについては、手纏を投げれば遠くへ飛んでいく、その飛ぶ距離を沖の遠さに重ねた名だという説明があります。投げ捨てるという動作と、神名の「離れていく」という動きが一致している点は、この神の名の分かりやすいところです。
とはいえ、これは文字と音から導かれた後世の読みです。『古事記』が「沖の神である」と説明しているわけではないので、「〜と解されている」という形で受け止めておくのが確かです。
4. 手纏の6柱に共通する対の構造
左右の 6 柱を並べると、次のようになります。
| 1 柱目 | 2 柱目 | 3 柱目 | |
|---|---|---|---|
| 左の手纏(奥=沖) | 奥疎神 | 奥津那芸佐毘古神 | 奥津甲斐弁羅神 |
| 右の手纏(辺=岸辺) | 辺疎神 | 辺津那芸佐毘古神 | 辺津甲斐弁羅神 |
違うのは頭の「奥」と「辺」の一字だけで、後ろの「疎」「那芸佐毘古」「甲斐弁羅」は左右でそろっています。左右 1 対の腕輪から、沖と岸辺という 1 対の神々が成る。この対称は原典の並びそのもので、「奥=沖」「辺=岸辺」と読む対応も通説になっています。
横の列で見ると、1 柱目は「遠ざかる」神、2 柱目は「渚(なぎさ)」の神、3 柱目は語義のはっきりしない「甲斐弁羅」の神です。奥疎神と辺疎神は同じ「疎」を持ちながら、片方は沖へ、片方は岸辺へと、反対の方向に離れていく 1 対と読まれています。渚の 2 柱と甲斐弁羅の 2 柱については、それぞれ 奥津那芸佐毘古神・奥津甲斐弁羅神 の記事で詳しく扱っています。
左の手纏から沖の神々、右の手纏から岸辺の神々が成る理由を、『古事記』は語っていません。禊の最後に左目から天照大御神、右目から月読命が成るように、この段は左を先に置く語り方をしていますが、左と沖を結び付ける意図があったかどうかは本文からは分かりません。
5. 陸の神から海の神へ切り替わるところ
冠までの神々には、道や分かれ目にかかわる名が目立ちました。ところが手纏の 6 柱では、名前がそろって海辺の言葉になります。そしてこのあと伊邪那岐命は水に入り、水の底・中・上で綿津見神や筒之男命といった海の神々が成っていきます。奥疎神は、陸の神々から海の神々へと語りが移っていく、その最初の 1 柱と見ることができます。
手纏は衣服ではなく飾りです。身を覆う物をすべて取り去ったあと、最後に手首の飾りまで外して、伊邪那岐命は何も身に着けない姿で水に向かいます。脱ぐという行為の最終段階から海の名の神々が成ることは、次の場面を先取りしているようにも読めます。ただし、これは物語の組み立てから導いた考察で、原典の説明ではありません。
6. 『日本書紀』に手纏の神はいない
『日本書紀』神代上 第五段の一書第六にも、伊弉諾尊が投げた物から神が成る話があり、杖・帯・衣・褌・履などから岐神や長道磐神(ながみちいわのかみ)といった神が成ったとされます。ただし神名も数も『古事記』とは一致せず、手纏から神が成るという記述は見えません。
したがって、奥疎神をはじめ左右の手纏の 6 柱は、同名の神が『日本書紀』にない、『古事記』だけに伝わる神々です。沖と岸辺が 3 柱ずつ向かい合う構造も、『古事記』独自のものと言えます。
7. 6柱の信仰と神社について
手纏の 6 柱について、古くからの祭祀や信仰の記録はほとんど知られておらず、主祭神として祀る神社もほとんど知られていません。名前が伝わるだけで、社殿を持つ信仰の対象にはなってこなかったと考えられます。
「沖」や「岸辺」「渚」の名から海や航海に関わる神として、また禊の場で生まれたことから祓いや清めに結び付けて語られることはありますが、いずれも神名と誕生の場面からの受け止め方で、伝統的な信仰の裏付けがあるわけではありません。思いを寄せたい場合は、禊の神話が語られる伊邪那岐命(伊邪那岐命)ゆかりの神社で、この場面の神々を思い浮かべるのがよいでしょう。
8. 前後の神々とのつながり
奥疎神の直前には、冠から 飽咋之宇斯能神が成っています。1 品 1 柱の流れはそこで終わり、奥疎神から 3 柱ずつの流れが始まります。
右の手纏の筆頭で、奥疎神と一字違いの対になるのが 辺疎神です。右側の残る 2 柱、辺津那芸佐毘古神と 辺津甲斐弁羅神のうち、辺津甲斐弁羅神は身に着けた物から成った 12 柱の最後にあたります。
9. 「遠ざかる」名から考えること
沖と岸辺は、どちらか一方だけでは成り立ちません。遠くへ離れていく神と、岸辺へ離れていく神がそろって、はじめて海辺という場所の広がりが示されます。
奥疎神の「離る」という名は、投げた腕輪が手を離れて遠くへ飛んでいく様子そのものでもあります。手放した物が自分から遠ざかっていく。名前だけが残った神ですが、その名は、区切りをつけて次へ進む場面の心の動きを、今も素直に言い表しているように思われます。
まとめ
- 奥疎神は、左の手纏から成った 3 柱の筆頭で、品物の名と直接結び付けて記された左側ただ 1 柱の神です。
- 神名は「沖に離る」、沖へ遠ざかる神と読まれ、腕輪を投げた飛距離の連想とする説明があります。
- 左右の手纏の 6 柱は「奥(沖)」と「辺(岸辺)」の一字だけが違う対の構造をなし、奥疎神は辺疎神と向かい合います。
- 陸にかかわる名の神々から、海の神々の場面へ移る最初の 1 柱と読むことができます。
- 手纏の神は『日本書紀』に見えず、6 柱とも祀る神社はほとんど知られていません。
参考文献
- 倉野憲司 校注『古事記』岩波文庫
- 次田真幸 全訳注『古事記(上)』講談社学術文庫
- 西宮一民 校注『古事記』新潮日本古典集成
- 坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋 校注『日本書紀(一)』岩波文庫
